2種類の死
40歳を超えたこともあると思いますが、人の死に遭遇することが増えてきました。
それに伴って最近よく考えているのは、人は大雑把に2種類の死があるということです。
一つは砂時計の砂が少しずつ減っていき、最後の一粒が尽きたときに訪れるような死。
もう一つは、ある日突然ブレーカーが落ちてしまうような死。
作家の平野啓一郎さんも「漠然と死には2種類あるのだろうと考えた。ひとつは、生物学的な限界に近づく寿命で迎える死。もうひとつは父に起こったような、病気や事故で中断される死」と書いています。https://dot.asahi.com/articles/-/124046?page=1
最近、生物学者の小林武彦さんが書いた「なぜヒトだけが老いるのか」という新書を読みましたが、
老いていくことによる「フェードアウト型」の死に方は人間が進化の過程で獲得してきたもので、
野生動物は基本的には老いがないか、あっても極端に短い「シャットダウン型」の死に方だそうです。
僕にとっては、ある日ほとんど何の前触れもなくブレーカーが落ちるようなシャットダウン型の死の方が盲点だったのですが、
ひろく生物全体に視点を移せば、むしろ砂時計が徐々に尽きていくようなフェードアウト型の方が特殊だという気づきは新鮮でした。
死とどう向き合って生きるのか
人間には2種類の死に方があるという特殊な事情があるようです。
それは、今現に生きている僕たちにとって、どのように人生と向き合っていくかを考える上である種の迷いを生じさせます。
少し前に「老後2000万円問題」が世間をにぎわせたことに象徴されるように、多くの人が前提にしているのはフェードアウト型の死でしょう。
人生100年を生きるために、お金の問題をどうやってクリアするか、健康寿命を延ばすか。
いかに趣味や生きがいを見つけるか、居場所を確保するか、AIに奪われない仕事のスキルを身につけるか。etc.
人間の死がフェードアウト型ばかりならば、上記のようなことは人生を生きる上での中心的な命題になります。
しかしその一方で、予期せぬシャットダウン型の死が訪れる可能性も皆に等しくあるという現実があり、
そのことを意識した瞬間に、上記の命題は途端に意味が薄れていってしまいます。
いくら将来のことを考えていようが、次の瞬間、死んでしまえばほとんど意味がなくなってしまうわけです。
反対にシャットダウン型の死を前提とするならば、生きる上での中心的な命題はどう変わるでしょうか。
それはおそらく、今日一日を、今この瞬間を悔いなく生きるにはどうすればよいか、です。
僕が小学生の時、家族でファミレスに行ったときのことをなぜか今でも覚えているのですが、
注文をする際に父親が「どうせ明日死ぬかもしれないんだから、お金なんて残してもしょうがない。いいもの頼もう」と
唐突に言い出したことがあります。(ファミレスなので、高くてもたかが知れていますが)
まだ幼かった僕は、なんでそんな怖いことを言うんだろうかと不安に駆られて食事どころではなくなったわけですが、
翌日も何事もなく過ぎ去り、父親はそれから30年以上経った今も元気に生きています。
親が今日が最後かもしれないという気持ちで、宵越しの銭を持たず、刹那的な生き方をしていたら、
きっと今の自分はこのような形で生きていなかったでしょう。
明日のために今日を犠牲にしない生き方は、裏を返せば今日のために明日を犠牲にする生き方にもなり得ます。
当然、シャットダウン型の死を前提とした生き方は、上記のような刹那的な生き方だけでなく、
その日一日を無駄にしないように毎日最善を尽くそうという前向きな姿勢につながっていく可能性もあります。
アップル創業者のスティーブ・ジョブズは「もし今日が人生最後の日だとしたら、私は今日やろうとしたことを本当にやりたいだろうか」と
なんと30年間もの間、毎日鏡に向かって語り続けたそうですが、それはスティーブ・ジョブズのような偉人だからできたこと。
ほとんどの人間はそんなに強くないので、毎日明日死ぬかもしれないと思って最善を尽くしつづけるのは難しいわけです。
死を意識することと、子ども若者への関わり方
理想的に言えば、僕たちは2つの死をどちらも意識しながら行きつ戻りつして、
普段は老後の人生までを視野に入れた選択をしながら、ふとシャットダウン型の死を思い出し、
たまには明日死んでも後悔しないように全力で生きてみるということを繰り返すんだろうと思います。
そして死に方を意識するということは、僕たちがこどもや若者たちの問題と関わっていく上での基本的な視座を与えてくれます。
数十年間の老いまでつづく人生をよく生きるための関わり方、今この瞬間を悔いなく生きるための関わり方。
それらはときに相反し、どちらも正しい。
だからこそ、どちらかを押し付けるべきではないし、本人が自覚的に選択できるようにすることが私たちの役割なのではないでしょうか。