毎年増加をつづけている不登校の子どもたち。
この現状に、私たちはどのような意識で向き合えばよいのでしょうか。
フリースクールの黎明期から立ち上げや市民運動に関わってきた当法人の鈴木綾常務理事に伺ったお話も踏まえながら、不登校への理解を深めていきます。
なお、本記事の発信元はNPO法人アスイクであり、鈴木綾氏個人の主義・主張ではないことを付け加えておきます。
少子化の中、増加しつづけている不登校の子どもたち
まずは現状から確認しましょう。
全国の不登校児童数は、平成10年~27年頃までは12万人~13万人ぐらいの幅を行ったり来たりしていましたが、平成28年頃から急上昇。
令和2年度には、小中学生合わせた不登校児童数は、約20万人に達しています。
少子化と逆行するように不登校は増えつづけ、全児童に占める割合は、小学生では約1%、中学生では約4%となっています。
なぜ近年不登校の子どもが増えているか、と問われれば、複数の要因が重なった結果であると言うべきでしょう。
学校に行くことがすべてではない、という子どもや保護者の意識の高まり。
経済的に困窮し、複合的な問題を抱える家庭の増加。
いじめ防止対策推進法に規定される重大事態(心身等に重大な被害が生じたり、学校欠席を余儀なくされるようないじめ)の増加。
学校教員の過重労働による個別対応力の低下。
休息の必要性や学校外での学びの重要性を明記した「教育機会確保法」(H29施行)などの影響による学校・社会側の態度の変化。
これらは背景の一部でしかありませんが、結果的に不登校にある子どもたちが増えています。
不登校=問題ではない
不登校の子どもが増えていると聞くと、それだけで大きな社会問題のように見えますが、それは必ずしも正しくありません。
たとえ学校に行かなくても、たとえば家の中で自分が勉強したいことを自分のやり方で学んでいたり、地域活動のボランティアをしていてさまざまな人とのつながりの中から自分なりの学びを得ていれば、それを問題と表現すべきではないでしょう。
反対に、学校に行っていることが絶対的に良いことなのかと問われると、皆さんはどう思われますか?
筆者(大橋)は、思い返すだけで不快になるような中学校に通っていました。
担任教師は生活態度の良くない生徒を差別的に嘲り、学芸会では「自分が恥をかくから頑張りなさい」という言葉を平然と口にするような人。
生徒指導の教師は、集会があるごとに大声で怒鳴り散らしながら生徒を従わせ、自分が担当している社会の授業中は全員に自習ノートを作らせ、自分はいびきをかいて寝ているような人でした。
(この時期、自分は教師にだけはなるまいと固く心に誓いました)
私のような環境は少し極端かもしれませんが、「学校に行っている=人生にとってプラス」、「学校に行っていない=人生にとってマイナス」という構図が絶対ではないことはご理解いただけると思います。
なお、文部科学省が平成28年9月14日に発出した「不登校児童生徒への支援の在り方について」という通知では「不登校は問題行動ではない」こと、令和元年10月25日の通知では、「学校復帰のみが目的でない」ことが明記されました。
登校拒否(当時の表現)は母子分離不安症などの病理で医学的治療の対象である、家庭のしつけの問題であるとされてきた1950~80年代。
登校拒否は学校への不適応であるから適応させるための指導、学校復帰が原則であるとされてきた1990年代。
そういった歴史的経緯からすれば、これらの通知は非常に大きな歴史的意義を持つものだと言えるでしょう。
子どもの権利が擁護されているか
しかし、不登校は問題ではないのだからどれだけ増えようが気にしなくてよい、ということでもありません。
不登校は、それによって子どもの権利が擁護されていないときに、社会が取り組むべき問題となります。
子どもの権利条約は、子どもの権利を国際的に保障するために定められた条約。
日本では1994年に批准されました。
お恥ずかしながら、筆者は今のような仕事をするまでは、子ども権利という言葉すらきちんと認識していませんでした。
1994年といえば、中学2年生の頃。
ちょうど前述のような学校にいたわけですから、教師から子どもの権利などという言葉は伝わるはずもなかったわけです。
それはさておき、子どもの権利には「育つ権利」、「守られる権利」、「参加する権利」、「生きる権利」の4つの大枠があります。
これらに不登校の子どもたちに起こりうる状況を照らしていくと、どんなことが見えるでしょうか。
不登校と育つ権利
ユニセフによれば、育つ権利とは「勉強したり遊んだりして、もって生まれた能力を十分に伸ばしながら成長できること」とされます。
学校に行かないことにより、この育つ権利が保障されにくくなることは想像が難しくないかもしれません。
しかし、気を付けなければならないのは「育つ権利=学校教育(あるいはそれに準ずる教科学習など)を受けること」ではないことです。
より本質的な学びとは何かを考える上で参考になるのは、ユネスコにおいて1985年に採択された学習権宣言(パリ宣言)。
少し難しい内容ですが、要点を抜き出します。
学習権とは、
読み書きの権利であり、
問い続け、深く考える権利であり、
想像し、創造する権利であり、
自分自身の世界を読みとり、歴史をつづる権利であり、
あらゆる教育の手だてを得る権利であり、
個人的・集団的力量を発達させる権利である。
学習権はたんなる経済発展の手段ではない。それは基本的権利の一つとしてとらえられなければならない。学習活動はあらゆる教育活動の中心に位置づけられ、人びとを、なりゆきまかせの客体から、自らの歴史をつくる主体にかえていくものである。
この学習権宣言に記されていることが、現代社会に置き換えるとどのような学びの機会になるのかは、人によって解釈があると思います。
しかし少なくとも学校教育を受けさせることとイコールではないし、ましてや教科学習を教えることだけでもないことは言うまでもありません。
読み書きといった他者や世界の知識にアクセスする能力を獲得し、自分自身を見つめたり、他者と関わる中で、何かを創造し、さらに必要な学びを得ながら、主体的に自分の人生や社会を作り上げていくこと。
こういった学び、あるいは基本的権利が保障されていれば、極論学校に行く行かないはどちらでもよいこととも言えます。
しかし冷静に現実に目を向けると、不登校にある子どもたちの多くがこのような学びを保障されているとは言い難いのもまた事実ではないでしょうか。
学校に行かなくてもフリースクールに通っていれば学びが保障されるという考えにも危うさがあります。
自発的な活動であり、十分な運営費やスタッフ体制を確保しにくいフリースクールが必ずしも学習権を保障する運営をしているとは限りません。
そもそも、不登校にある子どもの20万人の内、民間団体・民間施設につながった子どもは約7,000人(3.5%程度)しかいないのが現実です(※)。
また、フリースクールの多くは受益者負担であり、経済的な負担から様々な家庭環境にある子どもたちの受け皿になりにくいという点にも目を向ける必要があります。
いずれにせよ、不登校にある子どもたちの3人に1人はどこにもつながっておらず、さらにその割合は年々上昇していることを鑑みれば(※)、不登校になることは、ユネスコが宣言した学習権のような本質的な学びからも子どもたちを遠ざけやすいという現状を受け止めなければなりません。
なお、こういった現実に対して、一部のフリースクール関係者の中では「リゾームエデュケーション」という考えが注目されているようです。
リゾームとは根茎・地下茎のことで、現代思想(ポスト構造主義)で用いられる哲学用語。
私の浅はかな理解になりますが、学校、フリースクール、家庭といった場所に縛られず、地域やバーチャル空間を含め、ありとあらゆる生活空間で発生する学びをつなげていくような、場所ありきではなく子ども本人が中心となる学びの在り方というイメージでしょうか。
あるいは学びの場を施設から社会全体へ移行していくような思想かもしれません。
その理解が正しいかどうかはともかく、増え続ける不登校の子どもたちに対して、教育支援センター(適応指導教室)やフリースクールといった物理的な受け皿を増やすアプローチだけで学習権を保障しようとすることはますます難しくなっています。
不登校と守られる権利
守られる権利とは、ユニセフでは「紛争に巻きこまれず、難民になったら保護され、暴力や搾取、有害な労働などから守られること」とされますが、日本などの先進国においては、虐待などの身体的な危険から守られる権利、いじめやネット上の攻撃なども含めた心理的な危険から守られる権利も含まれるでしょう。
そういった視点から見れば、不登校は子どもたちの守られる権利を侵害することも少なくないことがわかります。
たとえば、不登校に対する社会の偏見。
近年は教育機会確保法の施行や文部科学省の通知、それらにも影響されたマスコミの論調などもあり、不登校にある子どもに対する偏見はだいぶ少なくなってきた印象はあります。
しかし、そうではない現実もまだまだ見受けられます。
同居する祖父母から子どもが学校に行かなくなったのはしつけが悪いせいだと親が責められ、自分自身も深く傷ついている子ども。
「学校に行けなくて自分はダメな奴だと責めていたけど、自分だけではなかったと思って安心した」と話す、当法人が運営する居場所に来た子ども。
平然と「学校に行かないのはサボりだ」と口にする学校の教師。
残念ながら、世間の不登校に対する偏見はまだ根強く残っており、それによって子ども自身が心理的に傷つく現実があります。
また、虐待などのリスクの高い家庭で子どもが不登校になると、安全確認も含めた見守りができなくなってしまうケースも少なくありません。
当法人が運営している事業でも、過去に子どもが親から命の危険にかかわるような暴力を受けたことがありながら、子どもは学校に来なくなり、学校からの訪問も拒絶しているため子どもの様子が見えにくくなっていたケースがありました。
行政ではない民間という利点を生かしてこの家庭に継続的に訪問支援をおこなった結果、深刻な事態であることがわかり、子どもが児童相談所に一時保護された、といったことも実際に起きています。
不登校と生きる権利
生きる権利とは、「住む場所や食べ物があり、 医療を受けられるなど、命が守られること」。
子どもの権利を持ち出すまでもなく、誰にとっても必要な当たり前の権利です。
しかし、不登校にあることは、この当たり前の権利が保障されにくくなることにもつながります。
たとえば、保健衛生へのアクセスの問題。
日本では子どもへの保健衛生も学校を中心にして設計されています。
学校に通っている子どもたちは何もしなくても校医が定期的にやってきて健康診断や予防接種をしてもらえる。
不登校の子どもたちはどうかといえば、健康診断などの時には通学する子どもを除けば、家庭が手配しなければなりません。
学校給食も生きる権利に関係する問題です。
子どもの貧困に関わる人たちの間では、学校給食は子どもたちにとってのライフラインであるという認識が当たり前になっています。
よくあるのが、夏休みや冬休みになると給食が食べられず、休み明けに痩せて学校に来る子どもがいるという話。
しかし、不登校の子どもたちは長期休業期間だけでなく、年間を通して給食を食べることができない場合があります。
当法人が運営している居場所事業でも、お昼ご飯を持ってこない子どもや、菓子パンなど栄養の偏った食事ばかりとっている子どもがいます。
こういった保健衛生へのアクセス、学校給食による栄養バランスの取れた食事だけでなく、より直接的に命に関わる問題があります。
それが俗に言う「9月1日問題」です。
一般的に2学期が始まる日であることが多い9月1日に自殺する子ども・若者が集中し、社会問題としてクローズアップされました。
上記のような行動に及ぶ子どもは必ずしも不登校に限りませんが、いじめを含めた様々な理由から学校に行くことを拒絶し、命を絶つまでに至っている点では、不登校とも密接に関わっていると考えられます。
不登校と参加する権利
最後の4つ目は、「自由に意見を表したり、団体を作ったりできること」とされる参加する権利。
少し拡大解釈すると、不登校になり学校という集団、あるいは部活などの活動から疎外されている時点で参加する権利が侵害されているとも考えられます。
かといって、地域のイベントやボランティアなどに参加できるかといえば、前述の不登校に対する社会的な偏見も相まって、それは子どもたちにとっての心理的なハードルが高すぎる場合が多いでしょう。
同年代の子どもたちがいる場所には行きたくない、学校に行っていないことを指摘されそうで日中に人目に触れるのが怖い、といった声は、子どもたちからよく聞かれるものです。
様々な社会活動に参加する権利を保障していくのが大切なことである一方で、アクティブシチズンシップ(※)に対する批判があることにも目を向けておく必要があります。
(※ 責任感や公共精神をもって社会参加すること)
不登校の子どもたちはサポートされることで元気になって、社会に参加していくことができるという大人たちの暗黙の期待。
それが、時に当事者の子どもたちをさらに苦しめてしまう可能性があるという批判です。
基本的なことですが、権利とは本人のためにあるもので、他人から押し付けられるものではないと十分に認識しなければなりません。
不登校にある子どもたちに必要なのは、子どもの権利擁護の視点
ここまで見てきたように、不登校の子どもたちに必要なのは、社会の側が権利擁護の視点で関わっていくことです。
教育支援センターやフリースクールといった物理的な場所にとらわれない多様な学びの機会をつくっていくこと。
社会の不登校に対する偏見を解消していくこと。
虐待・自殺など生命の危険のある状況に置かれた子どもへの見守りを機能させていくこと。
学校に行かなくても健康診断や給食と同等のサービスにアクセスしやすくすること。
当事者へのプレッシャーに配慮しつつ、社会参加の場をつくっていくこと。
ここで取り上げたのは、不登校にある子どもたちに必要なことの一部に過ぎません。
子どもの権利という根本に立ち返りながら、子どもの視点に立ちながら、今その社会で改善すべきことに取り組みつづける必要があります。
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