分人主義とはなにか
作家の平野啓一郎さんが「分人主義」という考えを提唱しています。
「分人」の反対にあるのは「個人」。
人間はこれまで「個人」という不可分の存在だと考えられてきましたが、そうではなく、ひとりの人間の中にたくさんの「分人」がある。
「分人」は、コミュニティや他者との関係の中で生まれるもので、それぞれ違った人格を持つもの。
特定の友人の前で現れる分人、家族の中で現れる分人、仕事の中で現れる分人。
皆さんも相手によって異なる複数の分人を抱えて生きているはずです。
人間には一つの「本当の自分」があるのではなく、複数の分人によって構成されているという「分人主義」。
自分のことがキライな人にとって、この「分人主義」は一つの救いをもたらしてくれる可能性があります。
たとえば、学校の中で友達がいなくて、いつも一人で過ごしている、陰キャの子ども。
こんな自分には価値がなくて、生きているのがつらい、消し去りたいと思っている。
でも、分人という考えに基づけば、そんな自分はたくさんある自分の一つにしか過ぎないのです。
違った対人関係、コミュニティをつくっていく中で、どこかに自分が好きな分人を見つければいい。
その好きな分人をよりどころにして、嫌いな自分も受けとめながら、生きていけばいい。
「分人主義」には、「本当の自分」という幻想にとらわれて、自己否定に陥ってしまう人を解放してくれる優しさがあります。
より正しく、深く、この考えを知りたい人は、平野啓一郎さんのサイトや書籍を参照してみてください。
分人主義と居場所
翻って、居場所とはなにか、なぜ必要か、という問いに対して、分人主義は一つの答えに導いてくれます。
たとえば、(いささかステレオタイプすぎますが)いじめで不登校になった子どもにとって、居場所はなぜ必要なのか。
人とかかわる自信や能力を身につけるため、自分は一人ぼっちという孤独を解消するため、学校に行けと口うるさい親から離れる時間をつくるため。
実際には一人ひとりにとってのさまざまな意味があると思いますが、分人主義の視点からいえば、自分が好きな分人と出会うためと言うこともできます。
自分のことを否定せずに受け止めてくれる人たちとの関係の中で、自然に笑えたり、冗談を言ったりできる分人と出会う。
その分人はこれまで学校でも家でも現れなかった自分で、この分人が自分の中心ならばこれからの人生を生きていけそうな気がする。
少し都合のよすぎる例え話かもしれませんが、単純にいえば、居場所にはそういった分人との出会いの可能性があるんだろうと思います。
僕たちの経験からも、これに近いことはたくさんありました。
学習支援事業やフリースペースにやってくる子どもの中には、関係者のなかでは悪名高い子どももいます。
何度も警察の世話になっている、これまでだれも手に負えなかった、あの子が入れば他の子は誰も来なくなる・・・
そういった前情報が入るたび、スタッフは戦々恐々とし、気合をいれて受け入れの準備をするのですが、
拍子抜けするくらいフツウの子どもだったり、愛嬌や魅力のあるいいヤツだったりすることも少なくありません。
もちろん、最初はいわゆる試し行動に翻弄されたり、調子の波に振り回されるようなこともあります。
それでも、学校や家庭から聞く様子とはまったく違う子どもたちがたくさんいました。
環境が変われば子どもも変わる。子どもの行動は環境が起こしている。
そんな風に語られることもありますが、それはなぜかと言えば、居場所(環境)が新しい分人をその子の中につくりだしているからなのでしょう。
複雑な家庭環境で育ち、素行はお世辞にも良いとは言えず、学校からは行事にも参加するなと排除されてきた中学生がいました。
「ねぇ、ここの社長なんでしょ。私もこういうのやりたいんだけど、どうやったらできんの?」と話しかけてきた彼女。
「なんでこういうことやりたいの?」と返すと、「だって、困っている子どもがいたら助けたいじゃん」。
ぶっきらぼうで時に誤解されながらも、周りの子どもたちの面倒見がよかった彼女は、
ここで面倒見のよい自分という好きな分人を見つけ出し、それをよりどころにして生きていきたいと思ったのかもしれません。